僕たちは色相環の中で生きている

-「人はパンのみに生きるにあらず」-

エスがこう示したように、我々人間は一面的でなく多面的である。多面的であるからこそ、さまざまな表情をみせ、あらゆるシチュエーションへの適応が可能となるのだ。しかし、こうした観念はおうおうにして無意識の彼方へ忘れ去られるのである。その要因の一つとして、「性格」という概念の流布があるのではないだろうか。

性格というものを「ある人物の言動から何かしらの傾向として抽出したもの」と位置づけするならば、それはその人の一面を切り取ったものに過ぎない。しかし、それが自分の全てであるように錯覚し、自身を固定概念化してしまうのである。

どうして人は「性格」などという厳格に惑わされ、本来の多面性を失ってしまうのだろうか。私なりに性格とはどういうものなのか、どのようにして決定されているのかについて述べようと思う。

私たちには生まれながらにして無数の絵の具が用意されており、好きな色を使って自由に描くことができる。人生を通して何かを描き続けているわけであるが、ある程度描き続けていると、使用する・しない色が個人によって異なり、傾向化してくる。ここでの傾向がおよそ「性格」にあたる。暖色系を使う傾向にある者もいれば、寒色系を使う稽古にある者もいる。あるいは、モノトーン系を使う傾向にある者もおり、まさに多種多様である。しかし、ここでつい見落としがちなのが、あくまで使用する頻度が高いだけであり、その他の色を使わないというわけではない。そもそも、使う色というのは環境において異なるものである。なぜなら、人は場面によってさまざまな顔もとい色を使い分けるからである。

余談ではあるが、稀に凶悪犯罪を起こした張本人が「普段は温厚な性格」と称されていようが、狂人的な色を選ばないという保証にはなり得ない。そういった意味では、善人や悪人と言った概念がいかに不安定なものであるかが窺えよう。