生い立ちと、①

今後の創作活動を前に、私の今の価値観の端緒となる生い立ちについて綴っていこうと思う。

 

私は、姉二人兄一人の四人兄弟の末っ子としてとある家族に生を授かった。兄弟とはそれぞれ10、8、6年離れており、エリクソンのライフサイクル論においておよそ学童期から青年期初頭に当たる彼らからすれば私は歳の離れた弟ということで、私はたくさん愛情を注いで育ち、多少のエゴもなんなく通す、まさに末っ子冥利という冥利を享受したのである。末っ子冥利は兄弟や家族といった身内だけではなく、兄弟の友人や両親の職場の同僚や上司の人からも享受できたのである。他の兄弟と違って幼かった私は留守番を1人でできなかったため、両親の職場に佇んでいたり母方の祖父母の家に預けられることが多かった。そのため、大人と大人(特に両親と職場の人)が応対する様を身近で見ており、そこから大人との応対を自然に身につけていった(ということにしている)。こうして多くの大人に囲まれて過ごした幼年期は今の私のアイデンティティを構築する上での重要なファクターとなっている。

 

小学校時代はおよそ順調であった、勉学に関しては幼稚園児の頃から時計やかんじはある程度書けた上、本もたくさん読んでいた(特に宇宙や気象に興味があり、今も自宅に本が残されている)。また某教育サービス機関の恩顧を被ったり、習い事で算盤、水泳、スポ少、塾に通ったりなど、文武両道の道を歩むのに負い目がないさまである。とはいえやはり活発的な面は変わらず、授業中でもお構いなしにお喋りをするぐらい「元気すぎる」といった具合である。およそ教育機関における議会制民主主義的な役割を担う点も変わらず、運営委員の委員長に自ら立候補したり、学校内外での会合において司会を務めたりなど、人前に立って何かをすることに全く厭いを見せなかった。友人関係も良好、毎週必ず友達と遊んでおり、地元の友人とは今でも交友が続いている(生活拠点が変化していないというのもあるが)。

 

中学校においても順調ぶりは健在であった。と言うのも、在籍していた生徒の大半は偏差値でいえばせいぜい50代とそれ以下、そして地域的に根付いていた、いわゆるヤンキー的立ち位置が一定数いた。そして定期テスト自体もそこまで煩雑でなく、中でも社会に至っては提出物として配られたプリントの暗記テストに近似するものであった。そんな環境において、学力的ヒエラルキーの最上位に君臨することなど造作もないことであった。運動も平均以上にはできたため、まさに文武両道の道を歩んでいた。しかし、順風満帆だったこの生活を送る私の前に壁が立ちはだかることになる。言い換えれば、「人生最初の挫折」である。中学校に入学した後、私は某アニメの影響を受けてバスケ部に入部した。バスケという競技の特性上、肉体的にも精神的にも辛い練習やトレーニングを積まなければならず、特に夏は体育館全体が熱されてサウナ状態の上で練習をするため、非常にタフであった。先輩が引退して自分たちの学年への代替わりを迎え、やはり当時から学校生活において前に出ることが多かった私は想定通りキャプテンに就任し、チームを率いる立場になった。しかし、キャプテンに就任したことで私はキャプテンシーの育成と個人として、いち選手としてのバスケットボールの技量の向上の両立という枷を背負うことになったのである。茹だるような暑さの中、チームの雰囲気作り、スキルアップのどちらもうまくいかず、さらには追い討ちの顧問の叱責といった悪循環は私に挫折を覚えさせるには十分すぎた。そんな夏休みのある日、日に日に疲弊していく私に止めをさすかのように「キャプテンをやめるか」という叱責の中でかけられた一言が、水面を一滴の滴が波打つかのように私の心を響かせた。三日ほど無断で部活を欠席したのち、退部を決意して顧問のもとに足を運んだ。しかし、思いの外顧問は私を退部しないように説得してきたのだ。その時かけられた言葉を要約すると、「お前は今まで失敗や困難に直面するという経験してこなかったがために、今目の前に聳え立つ壁に対して背を向けようとしている。だが、これからお前に訪れる未来は多くの困難や災難が待ち受けているだろう。ここで逃げているようではこの先も逃げてばかりの人生になる。」というものだ。当時の心境としては渋々残留したといった面持ちではあったのだが、最後まで仲間と厳しい経験を共有し切って引退を遂げた後になってその選択が正しかったことを痛感したのである。

中学でのエピソードはもう一つある。三年生となって受験ムードが一層漂う中、学年の最上位層という立ち位置は揺るぐことはなく、周りからはいわゆる「インテリ」のレッテルを貼られていくわけなのだが、読者の中にも経験した方はいるであろう、「インテリ」キャラ特有の悩みが芽生え始めるのである。それはつまり人間関係的な側面なわけなのであるが、とはいえ別段私が周囲から避けられているといったことはなく、むしろ頼られる場面が多かった。では人間関係の何を悩んでいたのかという疑問に繋がるわけなのであるが、それは「周りの友人との、とりわけ私の男子の要素の不十分さから生じる齟齬」である(この悩みに関しては現在にも通底するものであるのだが)。当時の私の心境としては、いろんな人間と仲良くなりたいと思うところがあった。例えば、一般的なところで言うスクールカーストの上位的な存在などが顕著である。スクールカーストを例に挙げたが、とりわけ私が下層部にいたというわけではない。手前味噌にはなるが、上位から1、2下がったあたりといったところだろうか(おそらく他人からの視点では異なるであろうが)。このスクールカーストというのも私の主観からなるものに過ぎないのであるが、簡単にいえば「陽キャ」に近いものである。決して友人の数に乏しさがあったわけではなく、毎日しょうもない話ができたり、昼餐を共にするような友人はいたのであるが、個人的に繋がりたいと思う者は多々存在していた。しかし、ここで私の願望を阻むのが先にも話した「インテリ」のレッテルである。レッテルが彼らとの間に距離を生むのである。とはいえ私と一定の親睦を深めている諸君ならお分かりだろうが、私はそこまで勉強一筋のガリ勉くんではない。むしろ幼少期は家にあったテレビゲームやゲーム機を貪るように嗜んでいたし、漫画もしこたま読んできた。ただ知的好奇心は人より旺盛で、少し学術的な者も厭わなかっただけなのである。私は無理にでも彼らとお近づきになろうと切望したのだが、かえって彼らに不信感のようなものを植え付けることにつながったのである。そうして(勝手に)思い悩み、受験のプレッシャーも相まって気を病んでしまった私は「私はどういった人間なのか」という自問自答を繰り返し、自己分析を始めたのである。しかしこの自己分析は自分でも良質なものであったと思う。皮肉にも、人間関係で悩みが私が私を包括的に理解する礎となったのである。

 

さて、ここまで一度筆を置くことにしよう。

次号は高校から現在についてを綴る予定である。