生い立ちと、②

さて、続きを綴っていこう。

 

高校受験では地元で最も偏差値の高い進学校への切符を逃してしまい、塾の先生の言われるがまま受験した私立高校への入学を余儀なくされたわけであるが、選択肢は二つ。自宅から余裕で通える比叡山高校か、受験するまで場所も名前も耳にしたことがなかった京都橘高校のどちらかであった。正直なところ、地元の公立高校に進学する気でいたので、私立高校については皆目「検討」していなかったのである。とはいえ他に選択肢はないわけであったのだが、橘に関しては奨学金を受給できる権利を獲得していたし、今後の生活圏内も考えてどうせ行くなら京都に行こうという、さながらJR東海のキャッチコピーのような魂胆でもって京都橘へと通うことにしたのであった。中学の友達で橘に通う者はおらず、せいぜい二個上の面識のない(私が一方的に知っている)先輩ぐらいで、さしづめアウェーといったところである。そうして私は新しいグレイッシュベージュ(この名前を聞いたのは三送会の時の生徒会長の話で初めてなのだが)制服を纏い、期待と不安に満ちた高校生活を歩み始めたのであった。

 

橘は4つのコースに分かれており、サッカーやバレーの部活推薦で入学してきた者が大半を占めるA(総合進学)コース、企業や大学でのフィールドワークが特徴的なE(特別進学)コース、高校と併設されている中学校から進学してくるVコース、そして進学実績の要となるS(国公立進学)コースといった内訳となっている。私はSコースに進学したのだが、入学当初はそのコースの特色がゆえに自分がコース全体に対してどういう位置にいるのかが不安で仕方なかった。というのも、今までは集団の上位に位置することが日常茶飯事であったからである。自分の位置付けが最初にわかったのは、橘出身の諸君なら認識できるであろうスタディサポートの結果であった。数学は中二の図形の証明あたりから苦手意識をすでに植え付けられていたためにあまり結果が振るわなかったが、英語は一問ミスで同率1位にランクイン(国語は覚えていない)したことで中学時代から積み上げてきた自信がより確固たるものとなったのである。さて内政的な部分はどうであったのかといえば、端的に言えば「高校3年間のうち最も混沌に満ちた」クラスであったように思う。新入生在校生を問わず、新年度を迎える際に座席は名簿順で振り分けられることになっていると思うが、幸か不幸か名簿の序盤(具体的に言えばあ行からさ行)に男子が固まり、後半にかけて薄れていくといった形態をとっており、さらには私は右上の端っこ且つ周囲を女子によって完全包囲されるという位置関係にあった。周りを女子に囲まれるという響きは男子一般からしたら良い者ではあるかもしれないが、私と交流がある諸君ならすでにご存知であろう、私は性別に囚われない性格であるため、会話を進めて親睦を深めること自体は造作もなかった。しかし、同時に男子との間に物理的な距離で阻まれてしまったことは大変な痛手であったように思う。対岸の男子サイドから見れば、始まって間もない新クラスで女子とためらいなく話す男子の姿は相当奇妙なものであろう(彼らが高校生活を通じて私をどのような人間としておいていたかは定かでないが)。その状況を作り出すのに拍車をかけていたのが私の中性的な性格である。男子同士の会話の典型例として、好みの女性のタイプ、女性遍歴、特定の女性の評価といったものがあるが、私は特に後半二つが苦手である。異性をあまり恋愛的・性愛的対象として見ないからである。とはいえ、「可愛い」とか「綺麗」の価値基準がないわけではない。あくまで「あまりやらない」といった程度である。そして私のクラスの男子は特に群れ意識というか、集団で行動することが多く、そのことが余計に絡みにくさを醸し出していた要素であった。

 

かくして始まった高校生活であったが、私は持ち前の積極性を殺すまいと委員会活動やクラスの幹事の仕事に励んだ。特に委員会活動は代議委員という、一般的なところでいえば学級委員にあたるものに所属した。コース間での交流が少ない橘において数少ない学年での横のつながりを作る場である。諸集会での司会や代表などは進んで名乗りあげ、持ち前の雄弁さとSコースというレッテルから着目を浴び、知名度を向上させた。代議委員は生徒会と違って学年内での取り組みに焦点を当てて活動している。中でも私にとっては一年生の合唱コンクールでの取り組みが最も印象的であり、私のクラスにおける地位に変化をもたらしたのである。合唱コンにおいて代議委員は主に学年共通の課題曲の決定、及びクラスごとの自由曲の決定を行う(曲の決定自体はクラスでの話し合い)。基本的に自由曲は文字通り自由なのだが、私のクラスは「100万回のI love you」という、ゴリゴリのポップス曲に決定を下した。しかし、自由曲が決まった後は練習用に楽譜と合唱用音源を探さなければならないのだが、どちらもいくら探しても見当たらないのである。ただ一つあるのは、自由曲の選定においてクラスで視聴したとある高校が合唱コンクールで披露しているYoutube上の映像音源しかなかったのである。私は何とか手を尽くそうと、その高校に電話をかけ、何とか楽譜が残されていないかと電話をかけたのだが、なにせクラス自体もとうの昔に解体されており、楽譜も残っていないとのことだった。そこで、八方塞がりになった私にはある一つの決心を心にする。Youtube音源をもとに楽譜も音源も自作するという、おそらく高校の合唱コンクール史上で初の試みである。夏休みに入り、当初は絶対音感を持つ母親に協力してもらい、二人での政策を試みたが、のちにクラスメイト二人にも協力を募ることにした。夏期講座の終了した放課後、当時は高校で一部教室が工事で回収されており、その影響でエアコンの効かない部屋で額に汗を流しながら、パソコンから聞こえる音をソプラノ、アルト、バス、テノールの四つで分類しながら、私が、聞き取った音を再現、友人A(伴奏担当)がドレミに変換、友人Bが書き記す、といった地道な作業を続けた。そして最終的に音源も自分たちで録音し、クラスラインに配布するといった、デジタル化された現代文明において極めてアナログな作業を熟したのである。

そうした並々ならぬ努力がクラスにも伝わったのか、クラスは一丸となって毎日練習に励んだものの結果は虚しく、入賞すら叶わなかった。しかし、結果こそ振るわなかったものの、クラスにとって、私にとっては素晴らしい経験となった。また、合唱コンにおける努力が報われ、クラスでの立ち位置、特に男子との関係性が向上した。信用を得たのだ。

人に認識されないところで汗水を流し、それが結果として表になった時にはその貢献を賛美される。いつからか求めていた、乾き切った自分の居場所というものを、称賛という美酒が潤してくれた。私はその美酒の味を覚え、酔いしれてしまった。私は今もその美酒を求めて生きている。

③に続く