僕たちは色相環の中で生きている

-「人はパンのみに生きるにあらず」-

エスがこう示したように、我々人間は一面的でなく多面的である。多面的であるからこそ、さまざまな表情をみせ、あらゆるシチュエーションへの適応が可能となるのだ。しかし、こうした観念はおうおうにして無意識の彼方へ忘れ去られるのである。その要因の一つとして、「性格」という概念の流布があるのではないだろうか。

性格というものを「ある人物の言動から何かしらの傾向として抽出したもの」と位置づけするならば、それはその人の一面を切り取ったものに過ぎない。しかし、それが自分の全てであるように錯覚し、自身を固定概念化してしまうのである。

どうして人は「性格」などという厳格に惑わされ、本来の多面性を失ってしまうのだろうか。私なりに性格とはどういうものなのか、どのようにして決定されているのかについて述べようと思う。

私たちには生まれながらにして無数の絵の具が用意されており、好きな色を使って自由に描くことができる。人生を通して何かを描き続けているわけであるが、ある程度描き続けていると、使用する・しない色が個人によって異なり、傾向化してくる。ここでの傾向がおよそ「性格」にあたる。暖色系を使う傾向にある者もいれば、寒色系を使う稽古にある者もいる。あるいは、モノトーン系を使う傾向にある者もおり、まさに多種多様である。しかし、ここでつい見落としがちなのが、あくまで使用する頻度が高いだけであり、その他の色を使わないというわけではない。そもそも、使う色というのは環境において異なるものである。なぜなら、人は場面によってさまざまな顔もとい色を使い分けるからである。

余談ではあるが、稀に凶悪犯罪を起こした張本人が「普段は温厚な性格」と称されていようが、狂人的な色を選ばないという保証にはなり得ない。そういった意味では、善人や悪人と言った概念がいかに不安定なものであるかが窺えよう。

 

 

生い立ちと、②

さて、続きを綴っていこう。

 

高校受験では地元で最も偏差値の高い進学校への切符を逃してしまい、塾の先生の言われるがまま受験した私立高校への入学を余儀なくされたわけであるが、選択肢は二つ。自宅から余裕で通える比叡山高校か、受験するまで場所も名前も耳にしたことがなかった京都橘高校のどちらかであった。正直なところ、地元の公立高校に進学する気でいたので、私立高校については皆目「検討」していなかったのである。とはいえ他に選択肢はないわけであったのだが、橘に関しては奨学金を受給できる権利を獲得していたし、今後の生活圏内も考えてどうせ行くなら京都に行こうという、さながらJR東海のキャッチコピーのような魂胆でもって京都橘へと通うことにしたのであった。中学の友達で橘に通う者はおらず、せいぜい二個上の面識のない(私が一方的に知っている)先輩ぐらいで、さしづめアウェーといったところである。そうして私は新しいグレイッシュベージュ(この名前を聞いたのは三送会の時の生徒会長の話で初めてなのだが)制服を纏い、期待と不安に満ちた高校生活を歩み始めたのであった。

 

橘は4つのコースに分かれており、サッカーやバレーの部活推薦で入学してきた者が大半を占めるA(総合進学)コース、企業や大学でのフィールドワークが特徴的なE(特別進学)コース、高校と併設されている中学校から進学してくるVコース、そして進学実績の要となるS(国公立進学)コースといった内訳となっている。私はSコースに進学したのだが、入学当初はそのコースの特色がゆえに自分がコース全体に対してどういう位置にいるのかが不安で仕方なかった。というのも、今までは集団の上位に位置することが日常茶飯事であったからである。自分の位置付けが最初にわかったのは、橘出身の諸君なら認識できるであろうスタディサポートの結果であった。数学は中二の図形の証明あたりから苦手意識をすでに植え付けられていたためにあまり結果が振るわなかったが、英語は一問ミスで同率1位にランクイン(国語は覚えていない)したことで中学時代から積み上げてきた自信がより確固たるものとなったのである。さて内政的な部分はどうであったのかといえば、端的に言えば「高校3年間のうち最も混沌に満ちた」クラスであったように思う。新入生在校生を問わず、新年度を迎える際に座席は名簿順で振り分けられることになっていると思うが、幸か不幸か名簿の序盤(具体的に言えばあ行からさ行)に男子が固まり、後半にかけて薄れていくといった形態をとっており、さらには私は右上の端っこ且つ周囲を女子によって完全包囲されるという位置関係にあった。周りを女子に囲まれるという響きは男子一般からしたら良い者ではあるかもしれないが、私と交流がある諸君ならすでにご存知であろう、私は性別に囚われない性格であるため、会話を進めて親睦を深めること自体は造作もなかった。しかし、同時に男子との間に物理的な距離で阻まれてしまったことは大変な痛手であったように思う。対岸の男子サイドから見れば、始まって間もない新クラスで女子とためらいなく話す男子の姿は相当奇妙なものであろう(彼らが高校生活を通じて私をどのような人間としておいていたかは定かでないが)。その状況を作り出すのに拍車をかけていたのが私の中性的な性格である。男子同士の会話の典型例として、好みの女性のタイプ、女性遍歴、特定の女性の評価といったものがあるが、私は特に後半二つが苦手である。異性をあまり恋愛的・性愛的対象として見ないからである。とはいえ、「可愛い」とか「綺麗」の価値基準がないわけではない。あくまで「あまりやらない」といった程度である。そして私のクラスの男子は特に群れ意識というか、集団で行動することが多く、そのことが余計に絡みにくさを醸し出していた要素であった。

 

かくして始まった高校生活であったが、私は持ち前の積極性を殺すまいと委員会活動やクラスの幹事の仕事に励んだ。特に委員会活動は代議委員という、一般的なところでいえば学級委員にあたるものに所属した。コース間での交流が少ない橘において数少ない学年での横のつながりを作る場である。諸集会での司会や代表などは進んで名乗りあげ、持ち前の雄弁さとSコースというレッテルから着目を浴び、知名度を向上させた。代議委員は生徒会と違って学年内での取り組みに焦点を当てて活動している。中でも私にとっては一年生の合唱コンクールでの取り組みが最も印象的であり、私のクラスにおける地位に変化をもたらしたのである。合唱コンにおいて代議委員は主に学年共通の課題曲の決定、及びクラスごとの自由曲の決定を行う(曲の決定自体はクラスでの話し合い)。基本的に自由曲は文字通り自由なのだが、私のクラスは「100万回のI love you」という、ゴリゴリのポップス曲に決定を下した。しかし、自由曲が決まった後は練習用に楽譜と合唱用音源を探さなければならないのだが、どちらもいくら探しても見当たらないのである。ただ一つあるのは、自由曲の選定においてクラスで視聴したとある高校が合唱コンクールで披露しているYoutube上の映像音源しかなかったのである。私は何とか手を尽くそうと、その高校に電話をかけ、何とか楽譜が残されていないかと電話をかけたのだが、なにせクラス自体もとうの昔に解体されており、楽譜も残っていないとのことだった。そこで、八方塞がりになった私にはある一つの決心を心にする。Youtube音源をもとに楽譜も音源も自作するという、おそらく高校の合唱コンクール史上で初の試みである。夏休みに入り、当初は絶対音感を持つ母親に協力してもらい、二人での政策を試みたが、のちにクラスメイト二人にも協力を募ることにした。夏期講座の終了した放課後、当時は高校で一部教室が工事で回収されており、その影響でエアコンの効かない部屋で額に汗を流しながら、パソコンから聞こえる音をソプラノ、アルト、バス、テノールの四つで分類しながら、私が、聞き取った音を再現、友人A(伴奏担当)がドレミに変換、友人Bが書き記す、といった地道な作業を続けた。そして最終的に音源も自分たちで録音し、クラスラインに配布するといった、デジタル化された現代文明において極めてアナログな作業を熟したのである。

そうした並々ならぬ努力がクラスにも伝わったのか、クラスは一丸となって毎日練習に励んだものの結果は虚しく、入賞すら叶わなかった。しかし、結果こそ振るわなかったものの、クラスにとって、私にとっては素晴らしい経験となった。また、合唱コンにおける努力が報われ、クラスでの立ち位置、特に男子との関係性が向上した。信用を得たのだ。

人に認識されないところで汗水を流し、それが結果として表になった時にはその貢献を賛美される。いつからか求めていた、乾き切った自分の居場所というものを、称賛という美酒が潤してくれた。私はその美酒の味を覚え、酔いしれてしまった。私は今もその美酒を求めて生きている。

③に続く

生い立ちと、①

今後の創作活動を前に、私の今の価値観の端緒となる生い立ちについて綴っていこうと思う。

 

私は、姉二人兄一人の四人兄弟の末っ子としてとある家族に生を授かった。兄弟とはそれぞれ10、8、6年離れており、エリクソンのライフサイクル論においておよそ学童期から青年期初頭に当たる彼らからすれば私は歳の離れた弟ということで、私はたくさん愛情を注いで育ち、多少のエゴもなんなく通す、まさに末っ子冥利という冥利を享受したのである。末っ子冥利は兄弟や家族といった身内だけではなく、兄弟の友人や両親の職場の同僚や上司の人からも享受できたのである。他の兄弟と違って幼かった私は留守番を1人でできなかったため、両親の職場に佇んでいたり母方の祖父母の家に預けられることが多かった。そのため、大人と大人(特に両親と職場の人)が応対する様を身近で見ており、そこから大人との応対を自然に身につけていった(ということにしている)。こうして多くの大人に囲まれて過ごした幼年期は今の私のアイデンティティを構築する上での重要なファクターとなっている。

 

小学校時代はおよそ順調であった、勉学に関しては幼稚園児の頃から時計やかんじはある程度書けた上、本もたくさん読んでいた(特に宇宙や気象に興味があり、今も自宅に本が残されている)。また某教育サービス機関の恩顧を被ったり、習い事で算盤、水泳、スポ少、塾に通ったりなど、文武両道の道を歩むのに負い目がないさまである。とはいえやはり活発的な面は変わらず、授業中でもお構いなしにお喋りをするぐらい「元気すぎる」といった具合である。およそ教育機関における議会制民主主義的な役割を担う点も変わらず、運営委員の委員長に自ら立候補したり、学校内外での会合において司会を務めたりなど、人前に立って何かをすることに全く厭いを見せなかった。友人関係も良好、毎週必ず友達と遊んでおり、地元の友人とは今でも交友が続いている(生活拠点が変化していないというのもあるが)。

 

中学校においても順調ぶりは健在であった。と言うのも、在籍していた生徒の大半は偏差値でいえばせいぜい50代とそれ以下、そして地域的に根付いていた、いわゆるヤンキー的立ち位置が一定数いた。そして定期テスト自体もそこまで煩雑でなく、中でも社会に至っては提出物として配られたプリントの暗記テストに近似するものであった。そんな環境において、学力的ヒエラルキーの最上位に君臨することなど造作もないことであった。運動も平均以上にはできたため、まさに文武両道の道を歩んでいた。しかし、順風満帆だったこの生活を送る私の前に壁が立ちはだかることになる。言い換えれば、「人生最初の挫折」である。中学校に入学した後、私は某アニメの影響を受けてバスケ部に入部した。バスケという競技の特性上、肉体的にも精神的にも辛い練習やトレーニングを積まなければならず、特に夏は体育館全体が熱されてサウナ状態の上で練習をするため、非常にタフであった。先輩が引退して自分たちの学年への代替わりを迎え、やはり当時から学校生活において前に出ることが多かった私は想定通りキャプテンに就任し、チームを率いる立場になった。しかし、キャプテンに就任したことで私はキャプテンシーの育成と個人として、いち選手としてのバスケットボールの技量の向上の両立という枷を背負うことになったのである。茹だるような暑さの中、チームの雰囲気作り、スキルアップのどちらもうまくいかず、さらには追い討ちの顧問の叱責といった悪循環は私に挫折を覚えさせるには十分すぎた。そんな夏休みのある日、日に日に疲弊していく私に止めをさすかのように「キャプテンをやめるか」という叱責の中でかけられた一言が、水面を一滴の滴が波打つかのように私の心を響かせた。三日ほど無断で部活を欠席したのち、退部を決意して顧問のもとに足を運んだ。しかし、思いの外顧問は私を退部しないように説得してきたのだ。その時かけられた言葉を要約すると、「お前は今まで失敗や困難に直面するという経験してこなかったがために、今目の前に聳え立つ壁に対して背を向けようとしている。だが、これからお前に訪れる未来は多くの困難や災難が待ち受けているだろう。ここで逃げているようではこの先も逃げてばかりの人生になる。」というものだ。当時の心境としては渋々残留したといった面持ちではあったのだが、最後まで仲間と厳しい経験を共有し切って引退を遂げた後になってその選択が正しかったことを痛感したのである。

中学でのエピソードはもう一つある。三年生となって受験ムードが一層漂う中、学年の最上位層という立ち位置は揺るぐことはなく、周りからはいわゆる「インテリ」のレッテルを貼られていくわけなのだが、読者の中にも経験した方はいるであろう、「インテリ」キャラ特有の悩みが芽生え始めるのである。それはつまり人間関係的な側面なわけなのであるが、とはいえ別段私が周囲から避けられているといったことはなく、むしろ頼られる場面が多かった。では人間関係の何を悩んでいたのかという疑問に繋がるわけなのであるが、それは「周りの友人との、とりわけ私の男子の要素の不十分さから生じる齟齬」である(この悩みに関しては現在にも通底するものであるのだが)。当時の私の心境としては、いろんな人間と仲良くなりたいと思うところがあった。例えば、一般的なところで言うスクールカーストの上位的な存在などが顕著である。スクールカーストを例に挙げたが、とりわけ私が下層部にいたというわけではない。手前味噌にはなるが、上位から1、2下がったあたりといったところだろうか(おそらく他人からの視点では異なるであろうが)。このスクールカーストというのも私の主観からなるものに過ぎないのであるが、簡単にいえば「陽キャ」に近いものである。決して友人の数に乏しさがあったわけではなく、毎日しょうもない話ができたり、昼餐を共にするような友人はいたのであるが、個人的に繋がりたいと思う者は多々存在していた。しかし、ここで私の願望を阻むのが先にも話した「インテリ」のレッテルである。レッテルが彼らとの間に距離を生むのである。とはいえ私と一定の親睦を深めている諸君ならお分かりだろうが、私はそこまで勉強一筋のガリ勉くんではない。むしろ幼少期は家にあったテレビゲームやゲーム機を貪るように嗜んでいたし、漫画もしこたま読んできた。ただ知的好奇心は人より旺盛で、少し学術的な者も厭わなかっただけなのである。私は無理にでも彼らとお近づきになろうと切望したのだが、かえって彼らに不信感のようなものを植え付けることにつながったのである。そうして(勝手に)思い悩み、受験のプレッシャーも相まって気を病んでしまった私は「私はどういった人間なのか」という自問自答を繰り返し、自己分析を始めたのである。しかしこの自己分析は自分でも良質なものであったと思う。皮肉にも、人間関係で悩みが私が私を包括的に理解する礎となったのである。

 

さて、ここまで一度筆を置くことにしよう。

次号は高校から現在についてを綴る予定である。

Introduction of my diary

前から自分の考えや感じたことを綴ったものを一つの形に残したいという思いがあり、とある人の影響を受けてこのはてなブログを通して形として残していこうと思った次第です

 

前置きとして、この場に於いて綴られる内容はこの世のあらゆる事象をいち個人が人生の過程で得た経験や価値観というものを通してフィルタリングしたものであり(ブログというものがそもそもそういうものでありますが)、個人の色に染まっているものであり、その時々の心情によって中身に傾きや揺らぎが生じることがありますので、あらかじめご了承ください。

 

また、極力わかりやすく論理的な文章を構築できるように努力いたしますが、私自身が物事を感覚的に捉える傾向にあるため、基本的には「好きなものを好きなように」のスタンスで綴らせていただきます。また、思いの丈を赤裸々に綴りますので、文章が冗漫になること、良くも悪くも私の「新たな側面を垣間見る機会」となりうることを前もってご留意ください。

また、気分によって文体も変わることもあるので、「読み物」としてご利用ください。 

 

それでは。